昭和51年1月16日 朝の御理解

 御理解第27節

「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのは別ものぞ。」

 信心をしておるからというて、また、お参りをしておるからというて、それが必ずしも、善人、正直者とは限らない。いやむしろ不正直な人があったり、善人どころか悪人と世間では言われる様な人すらもあるわけであります。けれども、おかげを受けるということは、信心しておかげを受けるということは、その「別ものぞ」とね。だからこれは、確かにお互いの、自分自身のことを思うてもいいです。私ぐらいの者が、御取次を頂いて、こういう間違いないおかげを頂いておる、という。確かに、信心しておかげを受けるということは別ものです。改まりもしなきゃ、磨きもそう心がけてもいない、私ですらも、こんなおかげを頂いておるのだから、確かに、神様いうて下さるとおりだと言うわけですね。そこで、なら信心させて頂いて、いよいよ私共がね、「おかげを受けるのは別もの」と仰しゃる、その「別もの」というところの、まぁ見解と申しますかね。これは、いうなら、「別天地」とでも申しましょうかね。「別の世界」、本当のいうならば信心の世界。まぁそれをもっというならば、金光大神の世界に住むほどしの、おかげを受けた時に、これは、、もういよいよ別ものというおかげが頂ける時だと。神様の願いがそこにあり、また、私共の願いも、だから、そこに置かなきゃないけない。私ごたる悪人でも、こげなおかげを頂いておる、というところから、そのいわば信心によって、悪人からです「我が心が神に向こうていうくのが信心というのじゃ」と仰しゃるように、自分の心の中に神心が育っていくね。そういう、私は修行をさせて頂く時に、初めて信心の世界のいうなら、有り難さ、尊さ、素晴らしさが、段々と身に付いてくると思うのです。
 昨日、宮崎から手紙が来ております。もう、とにかく(感動、息を詰まらせて)「おかげの泉勉強会」とこう言っております。「おかげの泉勉強会」。そして、皆がもう本当におかげを頂いておるということ。この前の大祭に、その石川の奥さんという方。石川のおばあちゃんと頃のお嫁さんじゃないでしょうか。が退屈しておってから、「合楽の御大祭にお参りしなさらんか。」と言われて、もう、旅行のつもりでいっちょするか、という、軽い気持ちでお参りをした。そして、親先生にお目にかかった、親先生の御祈念力の素晴らしさ、また特別に頂いた御理解の有り難さにです、今までのあり方が全部嘘だった、と気がついた。というて、かいさんのお家に見えた。そして、いわゆる『おかげの泉勉強会』に参加して、一生懸命勉強しております。とこういうのです。昨日は、たくさんの人のお初穂と、そして手紙二通が一緒に参りました。私は思うのに、信心させて頂いたら、「今までの生き方、あり方が嘘であった」と気付かなだめです。だから、そのままいったんじゃ、同じことですけれども、そこから、「少しでも本当の生き方にならせて頂こう」というところに、「別世界」がある。「別天地」があるです。いうなら「別ものぞ」と言われるね、神様がおかげをくださろうとする、おかげの働きがというものがあるです。「第一、私の方の主人は、もう、『仕事をなげうってから、合楽に修行に行きたい。』言うておりますけれども、仕事をまた、おろそかにしては、信心じゃないから、毎日朝、五時の御祈念に一家中で大払信行をさせて頂いて、それからは、教会にお参りをして、教会の御用でもさせて頂いておるつもりで、家の内外の清掃を主人がいたして下ります。もう、それこそ周囲が見違えるほどきれいになった。」と書いてあります。あり方が変わってくる。今までの、これは、かいさんのご主人のことです。それが、便せん三枚におかげを受けておること、願いでもなんでもない、おかげを受けておる有り様をです、「いよいよ『おかげの泉勉強会』が、たくさんの人が助かっていく会に成長していきますように」というふうに最後に結んでおられます。「勉強しなきゃおられんばい。」と。昨夜は「ふくしん会」でした。そんで、昨日までの朝の御理解をみなさん、頂いてもろうて、それで所感を述べてもらいました。ところが、一ぺん、二へんぐらい頂いたんでは、やっぱりまぁ肝心なところ、良いところは、ちょっとこう一言、二言、頂いてはおられるけれどもです、それが、勉強ということではないですから、やっぱりお粗末なことです。みんなが一通り発表された後に、昨日、ここの修行生の方達が、三十分間の研修をしたところを、皆さんに一人一人に聞いて頂いた。もう、みんなが、もうそれこそびっくりしてました。秋永先生が言っておりました。本当に勉強熱心、ここの若い人達が、こういうような信心の取り組み方、しかも、親先生が言われることに、肯定しながら認めておるということです。先生はできなさるばってん、というて否定していない訳です。親先生の言われることが本当だと、信じてこれだけの人数、一人一人のまとめ方の素晴らしいのにですね、もう、それこそ秋永先生だけではない、みんながたまがりましたね。いわゆる、みんなの方が「はぁ、勉強不足」ということを悟ったと感じております。しかも、昨日の御理解を頂きますと、「その勉強こそが真心だ」と言うのじゃから。「稽古そのものが真心だ」とね。「楽を志す人達が、楽に一生懸命の稽古をする時、そのものが真心だ」と。それこそ、自分のかけならす、雅な琴の音色が出てくる。自分のどっから出てくるか分らんような、有り難い声が出てくる。その歌と楽器とのひとつの調子というものがですね、それを聞き取りながら、弾かれるようになった時、もう心は神の世界に遊んでおるようなものじゃないでしょうか。いわゆる別天地に住んでおる。だから、そのういう心の状態を楽人をいつも、だから持ったら素晴らしいことになるというわけです。楽と一体になっておる。いわゆる大払信行を奉上させて頂いてです、それこそ神様と一体になるような心の状態が開けてくるのですから、それが真心。無。もちろん無条件での大払信行ですからね。「あれはもらわな、これは嫌」という、その我情我欲がない。そういう気持ちには入っていけるというわけです。

 私は、今朝方、お夢を頂きました。それは、丁度、私が北京におりました時分に、なんと言いますかね。東京で言ったら浅草のような所の、テンチョウという所があります。もう露店にたくさんの物、いろいろな物が出ておるだけではなくて、食べ物屋なんかでは、もういっぱい出てるんです。そういうような情景の所に、私がそこん中を視察して回っておるように、ずっと回っておりますと、もう酒の好きな人は、やっぱお酒を、とてもおいしそうな魚でお酒を飲んでおる人もある。ご飯を食べておる人もある。しかも、そこは庶民的な所ですから非常に安い。たったこんくらいで腹いっぱい食べられる、おいしいもんが、というておる情景です。また間には、地べたに茶碗を置いて、それで余所ん奴が、なんでんその茶碗でよそうでん、なんでん、腹太らして食べよるというようなふうです。まぁ一般で言う、それこそ人の茶碗でも叩き落としてからでも、自分がままになろうとする、というような世界のようでした。もうとにかく、「この世は金だ」と「金さえあれば、どんなおいしい物でも食べられる。金さえあらば、どげな良か目にでもあえる。」というて、もう、金、金の亡者達の集まりというような感じです。しかも、金になることならば、人の茶碗を叩き落としてからでも、これが「まぁ今の世情だ」というふうに感じました。まぁいうならば、おご馳走を食べておる、おいしいものは飲んでおるけれどもです、もう、いうならこしたんたんとして、まぁお互いの隙を狙らっておるという情景です。ね。そこをずっと見て周りまして、そこが終わってしもうて、その一番、もう奥ばった所に行った所が、そこから丁度、長はしごのような、はしごが、長はしごよりもう少し頑丈ですけれども、もう真っ直ぐい、もうこのはしごが掛かって、これから下りていかなければならない。ここの世界に住んでおる人が、ここんところに気づいて、ここから下りていかなければならない。だから私が、誰彼に「こっから下りなさい。下には素晴らしい別天地があるから」と言うておるわけです。ところが、羽織を着たり、洋服を着たりしとるから、「そげな素晴らしい別天地があるならば、なら下りようか」というて、その人達が来るというたのですけれども、あまりに、真っ直ぐいはしごですから、見たばっかりで目が回るような感じですから、「いや、とても私は」というて誰でも怖じ気づいておる場面でございました。

 そして、今日はこのいうなら「別もの」というね、「信心しておかげを受けるのは別もの」というところを、あのまぁ「高度な別もの」。「高度なおかげの世界」を今日は皆さんに聞いて頂いておるわけです。例えば、例え悪人であっても、または不正直な者であっても、信心しておかげを受るということは別ものです。けれども、なら私共がいよいよ信心の世界、本当の意味においての、いうならば「金光大神の世界に住まわして頂こう」というような意欲的な信心をさせて頂くならばです、例えば、填りさえ、私が言う「填りさえすれば下りられる」と私が言う。ね。羽織やら、まぁ色んなその着膨れしたごたるとを着とる。だから、なんか。はらずとも、例えて申しますと、なら高層建築なんかのいざかしという時には、縄はしごで、こう下ろされる訳なんですね。いざかしという時になるとです、誰でも「俺が先に」それをつたって下りて助かるわけです。けれども、まだこちらに、自分の努力とか人力というか、自分の我情我欲ででもです、やはり、まぁそれを厳密に言うと「自分さえ良かればよい」という生き方です。人の茶碗でも叩き落としてからでも、自分が先にままになろうというような、考え方です。それで結構、美味しいものも食べられる。腹いっぱいにでも食べられる。好きな酒も飲まれる、という訳です。それが、私は「信心のない人達の世界」だと思うんです。だから、そういう人達が、一度です、本気でいうなら填って、その「別世界」に下りていこうと意欲するならばです、誰でも填っておるならおりられんことはないです。「さぁ、火事だ」という時には、誰でん、そこにしがみついて下りる、おりんわけにはいけない。人力の限りを尽くして信心させてもらう。そこから、「人力のなんたるか」を悟ることが出来る。人間の知恵やら力で儲けれたとか、繁盛しよるとか言いよるばってん、まぁ例えば、ちょっいと、いうならば宣伝なら宣伝、広告なら広告止めたら、もう途端に売れんごとなった。ち。一生懸命、宣伝しとる時だけは売れとる、というわけなんです。それこそ、あの手、この手を使うてからです、売りに歩いておる時は、売れてよるけれども、その努力を止めたら、もう売れなってくる。

 昨日は、商売人ばっかりの集まりでございますから、昨日の御理解を繰り返し研修させてもらいました。福岡の大丸さんのお話をいたしましたですね。「神様の一切が御もの」と。もう、親先生のおかげで頂いておるのだから、とりもなおさず、私どもの財産は親先生の財産と同じことだと。親先生が離せというなら、いつでもこれにのしを付けております、と言うえるだけの信心を頂けと。人にも、それを話せるぐらいの信心を頂けち。ね。けれども、なら甘木の親先生がいっぺんだって、お供えをしなさらんかとか、いくらぐらい金を出さんか、といっぺんでもない。親先生は絶対にいいなさらんから「一切が親先生の御ものだ」と言っておったんのでは、ほんなもんじゃない。そこんところに難しさがあるわけです。

 昨日、光昭の嫁であります恵美子さんが、琴を、伊万里のお母さんが見えとりました。そして、お届けをされますのに「本当に恵美子の話を聞きながら、本当に恵美子の心の状態が開けていっておるのに驚きました。」とここでお届けをしておられます。「初めの間は、お母さん、本当に妊娠のおかげを頂いた。どうぞ、手足の五体満足の子供。器量が良いとか悪いとか、男とか女とか思いません。ただ、五体満足のお子供に恵まれますように、というて思うておったが、この頃では、例えば、それがもちろん男、女もちろんのこと、それがかたなものでも良いと思う」とこういうわけ。「『ただし、神様のお役に立つ氏子でありますように』というて、お母さんこの頃、願いよる」とこう言うたと。普通のたいがいの人が、「まぁ五体満足、もう(   ?   )言うわん。五体満足の子供それで結構だ。」というて、いわばそれ願うわけです。それが普通です。けれども、そういうことも願わんでち。「例え、神様が下さるなら、それが、かたほうの子供が生まれても、ただし神様、どうぞ、あなたのお役に立ちます氏子を頂かせて下さい。」というて願いよると。それで、私、昨夜そのことを申しました。「もう少し、心が進んでまいりますと、よっし子供が死んで生まれてもいとはん。」という。ただし、先日から言う「すがらなければおられない」のですから。「どうぞ、五体満足の」という、祈り願いを持たせて頂いて、なら、ぎりぎりのところは、死んで生まれても、そこのところは有り難く頂けるどん腹がでけておって、やはり、すがらずにはおられないのですから、実意をもって願うということが、また本当のこと。

 昨日は、いっぺいしょうにんの、いうならば、家も捨て、家内も捨て、もう一切を捨てきってもの修行。しかも、その捨てるということすらも捨てるということ、その死んで生まれてもね、いとわないという。信心の世界というものは、いわば心のしんけんというものは、本当に素晴らしい。昨日の、みなさんが、ここの修行生の方達の昨日の朝の御理解の、銘々に頂いておる信心をみんなに聞いて頂いて、みんなも「まぁ、ようもこんだけ、こういうふうに頂けるもんだ」とみんなが、ほとほと関心するほどしにあるということは、いうならば思い切って、この人間の浅ましい世界からね、いうならば人の方に見えておるところの、それこそ縄はしごをつとうて下りらなならんようなところに、本気で填って下りておるから、はっきり親先生が言うとことに、否定もせずに、肯定しながら頂いていくから、ああいう素晴らしい頂き方が出来るんだということになります。「先生は、あぁ言いなさるばってん」ことを言わんのです。ね。けれども、それが分かっただけではいけない。お互いのいうなら、家内、子供、一切の難儀なら難儀というものを引っ提げて稽古していくというところにです、「本当のことはこうだ」と分かって稽古していくのですから、その稽古が「また楽しい」ということになってくる。だから、どうでもでう「別世界に下りなければだめだ」いうこと。本当の信心の世界に。「本当のことが分らん」ち。親先生の言われることを本当に肯定しながら、「そうだ、そうだ。」と納得しながら、いわば信心の研修をするならばです、もう、それこそ信心がグイグイ、信心が血に肉になっていくことでしょう。そこに私が「別ものだ」と言われるおかげが頂ける。もう、別天地に住まわなければ、別世界に住まわなければ、金光大神の世界に住まわなければ頂けない、いうならばね、無尽蔵に限りなく与えられる世界が開けてくるね。そこで、お互い稽古しなければならないことは、この、いうなら、浅ましい現世に住まわせてに頂いて、信心の道に入らせて頂いたのですから、自分で獲得しようというような我力は捨てて、むしろ与える世界に住まわせて頂かなければいけない。心配りをさせて、心を配って周られる世界に住まわなければいけない。「はぁ、ああいう浅ましいことを言うてから。信心が分らん、知らんといいながら」とその人のことが祈れれるような信心にならなければならない。その与えれる世界の向こうにです、今度は与えられる世界がある。「人力を捨てて、すがれ神力に」ね。そこから湧いてくる、自ずと湧いてくる人力があるというのですから。その人力こえそが素晴らしいことになる。まずは、人力を捨てなければならない。そして神力にすがらなければならない。例えば、なら、その若い身そらというか、まだ心身とも若い青年男女がです、ね、本気でいろいろに迷いに迷い、悩むに悩むことでしょう。そして、結局、一番尊い生き方、生き甲斐のある生き方というのは、お道の教師になって、自分、人、自他共に助かっていく御用をさせて頂くということが、一番有り難いんだという決心がついたところから、修行に入ってくる。いうならば、人力に見切りをつけたわけである。そして、今、神力にすがっておるところである。なら、すがっただけで良いかというとそうではない、そこに、別天地に下りていうく、ひとつの度胸がいるように、「さぁ、こと火事だ」という時は、誰だってこの縄はしごを下りていくだろうけれども、せっぱ詰まらなければではなくて、そこに降り立たせてもらう、別天地に住まわして頂いてです、湧いてくる人力というものは、もう我力でもなからなければ、しるしいこともない。ただ、「ありがとうして、ありがとうして」とい精進ができてくる。今までは、もう家内の内外の例えば、この人は建築屋さんでうから、この手紙がきておるのは。それこそ、自分の仕事だけを大事にしとけば良いという人がね、朝の五時の御祈念に合楽に合わせて、大払信行を遠くでさせてもらう。そして、家内がご飯を炊く。自分は内外のお掃除をする。もうそれが楽しゅうてこたえんという世界なんです。「人力、自ずから湧く」というおかげを頂く。なるほど、こういう生き方にならせて頂く時に、それこそ「金光大神の世界」を目の当りという感じがいたします。どんなに難儀なことがあっても、それが神様が力を与えて下さろうとする働きだと分かる時に、その難義を引っ提げていうくことがです、また、有り難いことになってくる。その問題を引っ提げながら、そこから神愛を悟らしてもらわなければ、というのが昨日の御理解でしたよね。まず、そのれにはです、本当に「今までの自分の生き方は嘘であった」と気づかせてもらい、いわゆる「おかげの泉勉強会」、いうならば信心の研修を本気でさせてもらう。その研修をさせて、一生懸命させて頂いて、「はぁ、有り難いことだな、こんなに深い、こんなに尊い内容があったんだ」と気づかせて頂く、その心がそのまま真心だと。稽古そのものが真心だと。そこから、私は「別天地」に下りていうけれる、「別世界」に住まわして頂けれる、無尽蔵に限りなく与えられ、いわゆる恵まれる世界というものがある。信心の、いうならば、おかげを頂くということは、ここに表面にでておるところの、不正直者でも、悪人でも、「信心しておかげを頂けるには別もの」と言われる、その「別もののおかげ」をもう一つ、深く信心の世界に入らせて頂いて、いよいよ金光大神の世界に住まわして頂く、その別天地に住まわして頂いて頂く、それこそ想像もつかないほどしのおかげの世界ですね。そういう世界に住まわして頂けれるおかげを頂きたいね。その人力の限りを尽くして、自分の我力一つでやっておる時代。それは「負けちゃならん」という、それこそ、まぁ心で一生懸命努力もする。こしとんとん、「金のためなら、人んためにはせん。自分でがめて金儲けしよう」という心。それがよか商売なら、良か商売のごと思うとる。ね。それこそ「人が喜んでくださりさえすれば」というような、お商売をさせて頂くところからです、神様の御信用がついてくる。その神様の御信用には、限りないおかげがとものうておる。でおるね。そういう私は、限りないおかげの世界に住まわして頂く、それにはやはり、「填らなくてはいけない」ということです。もう、填りさえすれば、朝参りぐらいは、もうそれこそ、誰だって出来るとです。そして、だんだん楽しゅうなってくるとです。しょうことなしでは、それは、着物が多すぎる。着とるもの、着膨れしとるから、なかなか降りた立れんのだ。いつまでも、温かい布団の中が恋しゅうてこたえん。ね、いわゆる填っておかげを頂こうと、「これが本当だ」ということに、そこに填るということが大事です。本当に填るということは、「人間がこんなにも変わるもんだろうか」というのが、最近、合楽で修行しとる方達の、昨日も話したことですけれども、「ほんとこの人達どんが、もう、初めて合楽に御神縁頂いた頃には、どういうふになるじゃろか」と思いよった人達が、もう、それこそもう「別世界」に住にむ決心がでけたとたんから、もう人間が、それこそかくの、いうならば、まぁ人に心配を掛けたり、または迷惑をかけたりしておったようなことが、反対のことになってしまっておる、その修行ぶりにです、もう本当にただ関心するばかり。問題は、本当にこれからね、神力に一生懸命すがって、自ずから湧いてくる人力ができてくるようになった時が、ほんなものでしょうけれどもね。そこの過程をみんなが通らせて頂いておるということが素晴らしい。
 今日は「神信心して、おかげを受けるのは別ものじゃ」とね。わざわざ、下駄を履き替えようと思って参ってくる人がおる(笑)。おるですよ、ほんなこつ。靴を履き替えようと思うて参ってくるとがおる。そりゃあまあ、時にはね間違えてからという時もありますよ。けれども、本当にまぁ自分の下駄は持って帰ってから人の下駄を履いていきよるんだから、絶対、下駄をもらおうと思うて来るとです。そげんかとがあるとです。そげんかとでちゃです、合楽に御神縁頂いたら、おかげだけを受けるから不思議です。ですから、そこんところをから、もうひとつ、なら悪人が善人になる。不正直者が正直者になる。いうならば、填った信心をさせて頂いて、それこそ「別もの」と言われる「別世界に住まわして頂ける」ね、本当に限りなく恵まれる世界があるのですから、目の下に見えておるのですからね。填って、その別世界に住まわして頂けれる信心。それには私は「填りがいる」ということです。填るならば、「こと火事」という時には、どういう高層、ならビルならビルのような所からでもです、下からどんどん煙が上がってくるなら、やっぱ早う、つとうて降りらなおられないでしょうもん。そして、助かることが出来るでしょう。だから、そういう、ならいよいよという時ではなくてです、信心とは、そういう自ずと、例えば、初め、合楽には物見だんのつもりで参ってきた人が、今までの自分というものが嘘の生活であった、嘘の自分であった」ということに気づいて、「おかげの泉勉強会に参加しておる」というようにです、本気で勉強する姿勢をつくらないけんと思うですね。どうぞ。